ガスの歴史「文明開化を照らした明かり」

画像1画像2画像3
文明開化の夜を照らした明かり
 日本で最初のガス事業は、横浜で始まりました。2年後の1874年(明治7年)には、銀座レンガ街の建設とともに、銀座通り沿いに85基のガス街灯が灯り、東京におけるガス事業が誕生しました。このガス事業の口火を切った実業家高島嘉右衛門は、横浜付近の海を埋め立て、新橋・横浜間の鉄道を設置した人でもあります。
 当時繁華街に設置されたガス灯は、未来の快適な暮らしにつながる最先端の光だったのです。(例えば夜も商売できるようになるなど。)
 その後、ガス導管敷設の苦労を重ね、また、ガス灯用のマントルの導入により白く明るい光を実現することで、ガス灯は東京の街中に拡がり、全盛期の1917年(大正6年)には、5,792基のガス街灯が夜の街を照らし出しました。
 ガス灯を決められた時間に点消する仕事をしていた人がいます。これを「点消夫」(サン・テグジュペリ「星の王子さま」にも出てきますね。)と言います。その仕事を任せるための二つの条件とは何でしょう?「働き者であること」と「妻帯していること」でした。後者については寝過ごさないよう、ちゃんと起こしてくれる家族があることが重視されていたようです。
 現代では、ガス灯の放つ柔らかい光やクラシカルなデザインは、建物や地域のモニュメントとして利用され、全国では約3,000灯のガス灯が、私たちの周りで輝いています。

<画像と解説>
(左)「東京名所 京橋銀座通里煉化石瓦斯燈景ノ図」 歌川広重(三代)<明治13年>
(中)「立斎漫画」 歌川広重(三代)<明治12年> 注:点灯夫の背中に、赤丸に黒字で「瓦斯」の印があり、東京府瓦斯局時代から1898(明治31)年までガス会社で使われていた。
(右)横浜で使われていたガス灯。ガス資料館に設置されていて、裸火タイプ。

<参考文献・画像出典>
GAS MUSEUM がす資料館 ギャラリー第72回企画展「ガス燈が照らした東京の街」展、他収蔵作品より
https://www.gasmuseum.jp/wp-content/uploads/gal...
日本ガス協会ホームページ「ガス灯のある街」
https://www.gas.or.jp/gasto/

【元町公園・旧元町小学校】震災からの復興(3)

画像1画像2画像3
関東大震災からの復興の取り組みで東京のまちは大きく変わりました。そのひとつが学校・公園です。それまでの学校は木造校舎がほとんどでしたが、震災で発生した火災により多くの学校が焼失してしましました。この反省もとづき、小学校を鉄筋コンクリートの校舎にすると共に隣接した小公園をつくることで防災機能を高め、文化的な学校教育を目指しました。このときの学校や公園を「復興小学校」「復興公園」と呼び、現在でも都内に見ることができます。
そのような施設のひとつが文京区にある元町公園、旧元町小学校です。水道橋駅からほど近く、神田川(外堀)を右手に見て坂を上ったところに元町公園があります。現在の児童公園などとは違い、レトロで格調高い入り口の階段やパーゴラ(つる棚)などがあり、その奥には隣接した旧元町小学校の校舎も見ることができます。(現在は校庭などには入ることができません。外から見るだけになります。)このような小学校と小公園が隣接しているのが復興小学校・公園の特徴です。しかし、復興小学校も校舎の老朽化で建て替えが進んでいます。当時の姿をみられなく時期も迫っています。
他の地域(震災で焼失した被害の大きかった地域)でも復興小学校をみつけることができます。調べて巡ってみてはどうでしょうか。

【凌雲閣(りょううんかく)】明治〜大正の東京のタワー

画像1画像2画像3
 1890(明治23)年に浅草公園に隣接して凌雲閣(りょううんかく)が開業しました。通称浅草十二階とも言い、当時の浅草のシンボルでした。高さは52mで当時日本一の高さを誇っていました。10階までが八角形のレンガづくり、11、12階が木造で、日本で最初のエレベーターが設置され8階まで見物客を乗せていました。各階に売店や休憩所がり、11、12階には望遠鏡が備えられていて富士山や房総、品川まで展望できたそうです。残念ながら関東大震災で半ばから折れ、その後に取り壊されました。
 現在は、凌雲閣が建っていたであろうとする場所(浅草ビューホテル近く)に碑が残されています。またその辺りはビル工事などするといまだに凌雲閣のものではないかと思われるレンガが出てきます。
(絵葉書 出典:Wikipedia)

【永代橋・清洲橋】震災からの復興(2)

画像1画像2画像3
 「復興は橋より」これが関東大震災の復興事業の合い言葉でした。関東大震災では東京の各地から火の手があがり大きな火災となり多くの人々の命を奪いました。当時の隅田川にかかる橋は木製の橋であったため、多くが被災し通行できなくなくなり、避難する人々の行く手をはばみました。これにより被害が大きくなったのです。道路を広くし、鉄製の立派な橋をつくることが新しい東京のまちをつくる基本でした。
 そんな橋を巡ることができます。現在、隅田川沿いには遊歩道が整備され川風を感じながら楽しく歩くことができます。そのなかでもぜひ、巡りたいのが万世橋と清洲橋です。この2つの橋は復興橋梁を象徴するものです。橋のたもとに建てられた土木遺産の記念碑には「帝都を飾るツインゲイト」と題し次のような文章があります「帝都を代表する隅田川の入り口にあたる第一、第二橋梁は、筋骨隆々とした男性的なイメージ(永代橋)と優美な下垂曲線を描く女性的なイメージ(清洲橋)で演出されました。」
 隅田川は昔から江戸・東京を象徴する河川です。川沿いの遊歩道を歩くことで多くの新しい発見があります。万世橋・清洲橋以外にも多くの橋があり、ひとつずつに歴史があります。

【東京都復興記念館】震災からの復興(1)

画像1画像2画像3
4年生では地域の発展につくした人々を学習します。副読本『わたしたちの東京都』では関東大震災の被害からの復興を目指し、活躍した当時の内務大臣・後藤新平を取り上げています。
 関東大震災は1923年(大正12年)の9月1日に起きました。東京をはじめ、関東一円で大きな被害をもたらしました。特に東京では火災により隅田川周辺の下町を中心に当時の東京市の約3分の2にあたる人々が被害を受け、5万人以上の人々がなくなりました。
 この災害について一番、詳しく学べる施設が東京都復興記念館です。復興記念館は関東大震災の被害や、そこからの復興を記録するために1929年(昭和6年)に建てられました。大震災の被害、救援、復興を表す、遺品や被災物、絵画、写真、図表などが展示されています。
 また、復興記念館の建つ横網町公園には東京都慰霊堂もあります。関東大震災や第二次世界大戦の空襲で亡くなった方たちを慰霊する施設です。震災の被害と復興を学ぶ施設です。
周辺には江戸東京博物館をはじめ、国技館、旧安田庭園、刀剣博物館など多くの見所があります。

【浅草寺と浅草神社】 三社の由来と浅草寺境内の史跡

画像1画像2画像3
台東区の浅草には、年間多くの観光客が訪れます。ここ数年は、隅田川を超えてのスカイツリー観光と合わせて訪れる人も多いです。
浅草と言えば雷門・仲見世がすぐに言われますが、他にも面白い所は沢山あります。
・仲見世を抜けて浅草寺本堂の東にある二天門は国の重要文化財にもなっています。本堂の北西に立つ六角堂は、都内最古の木造建築物と言われています。またその近くに都内最古の石橋もあります。どちらも江戸初期に造営されたものです。石橋の隣には、室町時代頃の建てられたと言われている西仏板碑もあります。戦争でほとんど焼野原になってしまった浅草の中の貴重な史跡です。
・三社祭りは浅草寺の横にある浅草神社のお祭りです。浅草神社は、628年現在の隅田川で浅草寺の本尊観音像を漁師網ですくった檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)兄弟とその観音像をまつった土師中知(はじのなかとも)の3人を祭神とする神社で、江戸時代までは、三社権現社と言いました。5月の18日に近い土日で行われる三社祭には、多くの担ぎ手が集まります。
・近くには、レトロな雰囲気の日本最古の遊園地「花やしき」もあります。
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

会報

研究資料

授業に役立つ資料

夏季研究会資料

ようこそ都小社研へ

都小社研組織

研究事業

ホームページ掲載資料