【清掃工場を見学する】1

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清掃工場の見学は、4年生の「人々の健康や生活環境を支える事業」に関する内容で、ごみの処理と再利用についての学習に多く見学されています。
 子供たちにとって清掃工場の見学は、廃棄物を処理する事業について、処理の仕組みや再利用、人々の協力などを実際に見て調べ、廃棄物処理のための事業の様子を捉え、事業が果たす役割を考えたり、人々の生活環境の維持と向上を支えていることを理解したりすることがしやすいと思われます。
 清掃工場の見学で人気があり、多くの学校が見学
するところが『中央防波堤外側埋立処分場・新海面処分場』です。各清掃工場からの灰や不燃ごみが最後にやってくるところが『中央防波堤外側埋立処分場・新海面処分場』です。東京都23区には、可燃ごみを処理する清掃工場が21ヵ所(建替中含む)、不燃ごみや粗大ごみを処理する施設が2ヵ所あります。

【清掃工場を見学する】2

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清掃工場内のごみバンカ 中央防波堤外側埋立処分場  新海面処分場を見学する子供

 近くにある清掃工場も見学できるところがあります。清掃工場によって時間や人数の制限があるので、近くの清掃工場を見学するときは、事前に清掃工場に問い合わせてください。ごみバンカは子供たちにぜひ見せたいものです。また、ごみ収集車(塵芥車)を学校で見させてくれることもあります。
 『中央防波堤外側埋立処分場・新海面処分場』について少し説明します。場所は、江東区晴海三丁目です。お台場からほぼ一直線で車を走らせ、海底トンネルを抜け左折すると左側に事務所があり、右側一面に埋立処分場が見られます。すでに埋立処分場はいっぱいとなり、さらにその先の海面に新海面処分場が作られています。見学の時は、事務所の方がバスに同乗して説明してくれます。埋め立てた場所では、はだけた土から不燃ごみが見えたり、ガスが発生し鉄の筒の先に炎が上がっていたりしているのを見ることができます。途中バスを下車し、新海面処分場を見ることもできます。実際に見学に行ったとき、子供たちは匂いを気にしたり、新海面処分場の広さに驚いたりしていました。この埋立地の見学の他に、畳やベッドを解体する粗大ごみ破砕処理施設の見学もさせてくれます。もちろん事務所の方が、ごみ処理の過程やリサイクルについても説明してくれます。
実際に見ることで、自分たちのごみの処理についてより切実に考える学習になることでしょう。

【TOKYOミナトリエ】物流の最前線を知る

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昔から人や物が行きかうことで、街がにぎわってきました。人や物が行きかう条件の一つとして、その街に「港」があることと言われています。私たちの東京には、世界でも有数な港「東京港」があります。東京に港があり、日本の産業の中心であることは意外と知られていません。

「TOKYOミナトリエ」は、東京の「港」としての歴史やまちの発展に役割を果たしていることがわかる施設です。東京臨海部にある青海フロンティアビル20階にあり、東京港が一望できる観光施設としても人気です。館内は5つのデッキに分かれていて、江戸・東京が港を中心に発展してきた歴史や江戸の河岸の様子を再現したジオラマや樽廻船、菱垣廻船の模型などで江戸時代の海運、港が生んだ文化を学ぶことができます。また、ポートデッキでは、東京港の始まりからコンテナふ頭の様子、これからの物流産業の課題解決に向けた取り組みなど映像を通して学ぶことができます。

日本の産業の発展を支える「物流」の学習に取り組めるとともに、新しい東京の都市づくりを象徴する臨海副都心地区を散策することで、これからの東京について考える機会にぴったりの施設です。

【豊かな自然を守り生かす八丈島】

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【三原山頂から見た八丈富士】【スノーケリング教室】 【黄 八 丈】

 八丈島は、東京都の南の海上290kmに浮かぶ伊豆七島の中でも南端に位置する離島です。四方を海に囲まれていること、温暖・湿潤の気候を生かした農業や漁業が盛んです。農業では花卉園芸業がさかんで、フェニックスロベレニーなどの切り葉やシンビジウムなど洋ランの鉢物、フリージアなどが有名です。漁業ではかつて、カツオ漁が中心でしたが、近年はキンメダイやトビウオの漁獲量が増えてきています。
 八丈島は、江戸時代、幕府にとって重罪人である政治犯の流刑地でした。当時の知識人としての流人が伝えた独特の文化が、現在も島のあちこちに残っています。中でも、東京都の伝統工芸品である「黄八丈」は、島に自生する草木染料を使った絹織物として有名です。
 この他にも、釣りやダイビング、サーフィンなどのマリンスポーツ、流人の残した文化、雄大な景観を望めるトレッキングなど、最近は新たな観光にも着目し、島の活性化に力を入れています。

【奥多摩都民の森】東京の森林を体験する

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奥多摩都民の森     下草刈り体験        わさび田見学
 
 5年生では「我が国の国土の自然環境と国民生活との関連」に関する内容として「森林の育成や保護に従事している人々」を取り上げ、わたしたちの生活と森林を学習します。
 東京都の西部には都の面積の約4割に及ぶ豊かな森林が広がっています。奥多摩の豊かな森林地帯には天然林と人工林が混在しています。約60年前に植林した杉の木が出荷できる状態になっていますが、現在、林業の後継者不足、森林所有者の代替わりにより所有者不明の森林の増加などの理由により、奥多摩の森が荒れている現状が危惧されています。この単元の学習では、児童の関心を高める学習素材がたくさんあるため、指導計画では様々な工夫ができます。児童の体験的な学習を指導計画に位置付けることで、東京都の森林に対する切実感を意識しながら学習することが期待できます。
 森林を体験できる施設が東京都には2つあり、「奥多摩都民の森」、「檜原都民の森」があります。どちらの施設も児童が調べ学習するための資料があること、施設周辺の森を散策するプログラム、下草刈り、間伐などの森林を守り、育てる体験的な学習ができます。これらの施設をまず指導者が訪れると東京都の森の豊かさを感じることができます。さまざまな体験プログラムに参加することで、この豊かな森を守り、育てることの大切さを感じることができます。
 奥多摩湖周辺には、豊かな自然が広がっています。季節によって様々な自然の姿を見せてくれます。ぜひ一度奥多摩を訪れて、自然の豊かさを感じられてはいかがでしょうか。


【東京国際空港・おおたフェスタ】「国際都市おおた」の取り組みを知る

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東京国際空港   大田観光情報センター     おおたフェスタ

 4年生では東京の特色ある地域の様子の学習として「世界とつながる大田区」を取り上げています。羽田空港のある大田区は「国際都市おおた」を宣言し、大田区で暮らす在住外国人、外国人旅行者に対して、様々な取り組みを行っています。
 まず大田区の玄関口と言われる東京国際空港(羽田空港)は1日に約20万人が乗降する世界で5番目に利用者の多い空港です。1年間に約700万人の外国人が利用しています。空港内には「はねだ日本橋」「江戸小路」など江戸の町並みが再現されているコーナーがあり、日本の文化が感じられるようになっています。また多くの外国人観光客のために、羽田空港内には「大田区観光情報コーナー」が設置されていて、区内の名所について調べることができます。区内の宿泊施設、レストラン、販売店等では「大田区ウエルカムショップ」として、多言語対応可能なコールセンターや指さしハンドブックが常備されていて、外国人旅行者が安心して観光できるようになっています。「大田区まちかど観光案内所」では簡単な観光案内や区内の観光パンフレット、地図を提供しています。このように大田区では外国人旅行者が安心して観光できるような取組を続けています。
 在住外国人に対しては国際都市おおた協会が、地域の人と在住外国人との交流を企画しています。また年に一度開催される「OTAふれあいフェスタ」には様々なブースが開設され、地域、出展者、大田区の友好都市の関係者、在住外国人など、昨年は約30万人が来場者し、交流の輪が年々広がっています。OTAふれあいフェスタの会場を訪れると、国際都市を目指す大田区の取組を直に感じることができます。一度参加してはいかがですか。


【小笠原 父島・母島】世界自然遺産を体験する

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  南島     オガサワラオカモノアラガイ ホエールウォッチング

 4年生では、東京の特色ある地域について学習します。人々が自然環境を保護し、活用する事例として小笠原村の人々について取り上げます。
 小笠原は、東京から約1000km離れたところに位置しています。小笠原を訪れるためには、週1回の定期便「おがさわら丸」を利用する以外に交通手段はありません。約24時間の船旅を経て、父島に到着します。小笠原諸島は2011年に世界自然遺産に登録され、小笠原固有の貴重な自然に触れるため、観光客も増加しています。
 小笠原が世界自然遺産に登録された理由は、この島が本土から約1000km離れ、島の誕生から一度も大陸とつながったことのない海洋島であること、またその周囲1000km以内には大陸がなく、世界中でもここ小笠原だけにしか見られない固有種、希少種が生息しているからです。世界自然遺産に登録され、今後は貴重な自然環境を住民自身が自覚し、誇りをもって島に暮らすことで、環境保全の意識向上、エコツーリズムの推進が期待されています。また現在、貴重な自然環境を保護していくために、外来種対策など、国や東京都、村、住民などが協力する体制の一層の充実を図り、小笠原のすばらしさを効果的にアピールしようとしています。今後は観光客の増大、観光業の拡大によって島内経済の活性化が期待されています。
小笠原の自然の様子については、小笠原村観光協会、小笠原エコツーリズム協議会、小笠原村環境課、小笠原村産業観光課など、各団体で資料を発行しています。また島を訪れた時には小笠原の自然を体験できるガイドツアーが数多くあります。手つかずの自然をぜひ一度は訪れて体験してみたいですね。

【染め物のさかんな新宿区】

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新宿区の神田川沿いや妙正寺川沿いには染め物の工房がたくさんあります。染色関連業は300件を超えています。なぜ新宿の地に染め物の工房がたくさんあるのでしょうか?それは江戸時代のはじめにさかのぼります。
全国から集まる大名や商人、また物流の中心となった江戸市街はその時代の流行の中心となりました。日本橋界隈には大呉服店が点在し、その流行がすぐに浅草や神田の染屋に注文されたそうです。明治時代に入ると、浅草や神田は繁華街となり、行き場を失った染屋は神田川をさかのぼり、早稲田や高田馬場あたりに大きな工場を建て、その後工房や関連業種が進出して染め物のまちとなったのです。そこで作られた染め物こそ、東京都の伝統工芸品の一つ「東京染小紋」なのです。
 この伝統的な工芸品『東京染小紋』との学習のつながりは、学習指導要領の第4学年の内容(5)「県内の特色ある地域の様子について…、県内の特色ある地域では、人々が協力し、特色あるまちづくりや観光などの産業の発展に努めていることを理解する」の学習にあてはまります。さらに詳しく読むと、伝統的な技術を生かした地場産業が盛んな地域を取り上げることとなっています。このようなことから、新宿区の染め物は4年生社会科のねらいと内容にあてはまる学習なのです。新宿区の染め物の工房や工場は、妙正寺川や神田川の川沿いに多くあることをお伝えしましたが、山手線を挟んで西側となる地域では、下落合・中井あたり、東側では高田馬場・早稲田・牛込あたりにあります。東京染小紋について詳しく知りたい方には『東京染めものがたり博物館』(富田染工芸)をお勧めします。染小紋の歴史、制作過程、着物のほかに、型紙を見ることができます。複雑な模様の型紙は見事なもので、職人の技と熱い思いが伝わります。さらに事前予約で体験もできます。私もハンカチほどの大きさの染小紋を作りました。(布に型紙を当て、染料の入った糊を塗ります。)
新宿という大都会にある、江戸時代から受け継がれた地場産業を学んでみてはいかがでしょうか。

【羽村取水堰・羽村市郷土博物館】玉川兄弟の足跡を巡る1

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羽村取水堰(羽村市)  玉川兄弟の像(羽村市)  羽村市郷土博物館(羽村市)
 4年生では郷土の発展に尽くした人々を学習します。副読本『わたしたちの東京都』では江戸のまちの水不足解消のために玉川上水の開削に尽くした玉川兄弟を取り上げ、その工夫や努力について学習します。
 玉川上水は、人口増加で飲み水が不足していた江戸の町に、飲料水を供給するために作られた上水道です。多摩川の羽村から四谷までの全長43kmが1653年に築かれました。
 羽村取水堰(せき)は、多摩川の河口から上流約54kmに位置し、川をせき止める投渡堰(なげわたしぜき)、固定堰、魚類が行き来する魚道及びせき止めた水を取り入れる第一水門から構成されています。羽村取水堰は玉川上水と同時に建設され、承応2(1653)年に完成しました。当初は国立の青柳付近、次いで福生の熊川付近に取水口を設けましたが失敗し、現在の羽村地点となりました。
 取水堰に隣接する公園内には、幕府の命を受け玉川上水の工事を請け負った玉川兄弟の銅像があります。当時の測量器具である間縄(けんなわ)を持って立っているのが兄の庄右衛門(しょうえもん)、片膝をついて間竿(けんざお)を持っているのが弟の清右衛門(せいえもん)です。兄弟は玉川上水開削の功績を認められ、幕府から玉川姓を与えられ、玉川兄弟と言われるようになりました。
 また、多摩川を挟んで取水堰の対岸には、羽村市郷土博物館があります。館内には「玉川上水を守る」という常設コーナーがあり、江戸時代の水門・羽村堰再現模型・木桶と井戸・御用留(ごようどめ)などが展示され、玉川上水について詳しく学べる施設になっています。社会科見学で訪問すると、地元ボランティアの方が子供たちに分かりやすく説明をしながら、館内を案内してくれます。

【立川・小平周辺】玉川兄弟の足跡を巡る2

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天王橋から(立川市)   小平監視所(立川市)  清流復活放流口(小平市)
  明治3(1870)年、玉川上水にはじめて船が通いました(通船)。江戸時代には、上水が汚されることを防ぐため、幕府は船の行き来を許しませんでしたが、明治になって政府が変わるとすぐに通船が許され、多くの人が船や船頭を用意して輸送事業に参加しました。多摩地域はもちろん周りの県からもいろいろな品物が輸送され、たいへん盛んになりましたが、2年後の明治5(1872)年、上水の汚染を理由として急に禁止されてしまいました。
江戸の飲料水、そして武蔵野の新田開発に利用された玉川上水は、その後、近代的な水道へと生まれ変わり、東京の発展とともに設備を拡充していきました。昭和40(1965)年に東村山浄水場が設置されると、玉川上水の導水路としての役割も野火止用水との分岐点である小平監視所で終了しました。小平監視所の沈砂池に導かれた原水は、管路で東村山浄水場へ送られ、小平監視所から先の上水路は使われなくなりました。空堀の玉川上水は、公園や道路に変わっていきました。
そうした中、その歴史的意味や貴重な緑地としての価値を認めて、玉川上水を保存しようという運動が広がりをみせました。そして昭和61(1986)年、小平監視所から先へ、下水処理場で浄化した水が流れ、玉川上水は都市の中の憩いの場として復活したのです。
現在では、取水堰から福生市の宮本橋までは都立自然公園として、そこから下流の開渠(かいきょ)部分は、都の歴史環境保全地域に指定され、周辺の開発計画と調整を図りながら、積極的な保護と活用が図られています。

【四谷大木戸・水番所の碑】 玉川兄弟の足跡を巡る3

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【水道碑記】  【新宿歴史博物館のジオラマ】 【四谷大木戸跡碑】
玉川兄弟らによって、羽村取水堰から43キロメートルに渡って掘り進められた玉川上水は、ここ四谷大木戸から江戸市中に入ります。「大木戸」という名前から分かるように、ここには甲州街道から江戸への出入り口として、簡易な関所が設置されていました。江戸初期には夜間は木戸を閉じていたのですが、江戸の発展や往来の増加に伴い、18世紀には木戸は取り外されます。元禄時代に、四谷大木戸の外側に内藤新宿(現在の新宿)が開かれていることからも、江戸の発展ぶりが想像できます。なお、東海道側の大木戸は高輪にあり、新駅の名称「高輪ゲートウェイ」の由来ともなっています。 
四谷大木戸近くに、玉川上水の四谷水番所が設けられました。水質を保つための番所です。ここからは木樋や石樋を用いて、江戸市中へと配水されます。跡地近くの新宿区立四谷区民センターに石碑(四谷大木戸跡碑・水道碑記)があります。四谷大木戸跡の石碑は、地下鉄丸ノ内線の工事で出土した玉川上水の石樋を用いて作られたそうです。
新宿歴史博物館も近くにあり、一緒に訪れてみるとよいでしょう。常設展示に内藤新宿のジオラマがあり、四谷大木戸や水番所の様子を、その一部に見ることができます。

【府中・大国魂神社】 くらやみ祭が残るまち府中

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府中市は歴史ある街です。市の名前「府中」は、日本各地の「府中」と同様に律令時代の国府が置かれたことに因みます。市の中心部にある大國魂神社も、武蔵野国の総社として大変古くから人々の信仰を集めてきました。
くらやみ祭は、この大國魂神社の例大祭で、毎年5月の初めに執り行われます。祭のハイライトである神輿渡御が夜間に行われるのは、「尊いものが神社から神輿に移り御旅所に移る様子は人目に触れてはならない。」という考えに基づいています。江戸時代には、既に現在のような祭の形式だったようです。
また現在のくらやみ祭は、映画「くらやみ祭の小川さん」でも描かれていた様に、地域の方々の愛情や努力に支えられています。お囃子の競演や山車行列など、華やかな出し物の一つひとつが地域の協力なしには成り立たないものです。この祭が長く続いている秘密は、地域のつながりにあるのかもしれません。
参道にあたる馬場大門のケヤキ並木は、国指定天然記念物です。樹齢数百年のケヤキの巨木の木陰は夏でも涼やかです。電車で数駅足を延ばせば、南武線西府駅近くに、武蔵府中熊野神社古墳があります。葺石まで復元された古墳も一見の価値があります。

【そなエリア東京】地震からくらしを守る

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日本は地震の発生が多い国です。私たちの東京都は、今後30年間で70%の確率で首都直下地震が発生されると予測されています。地震からくらしをまもるためには、日ごろからの備えと防災に対する意識を高めることが大切です。

臨海地区に国の災害応急対策の拠点として2010年に東京臨海広域防災公園が整備されました。その中に防災体験学習施設「そなエリア東京」があります。「そなエリア東京」は、防災について学べる無料防災体験学習施設として、体験しながら学習を進めることができます。

1階は防災体験ゾーンとして「東京直下72h TOUR」という地震発生後72時間の生存力をつける、体験学習ツアーに参加しながら学ぶことができます。タブレット端末を使って「防災クイズ」を行いながら、地震発生後の行動を考えていきます。また、地震発生後の街の様子をCGでリアルに体験できることもできます。
2階は防災学習ゾーンとして首都直下地震について被害想定を学び、実際的な自助・共助を体感しながら身につけることができます。実際に首都直下地震が発生した際に、緊急災害現地対策本部が設置されるオペレーションルームを見学できることも魅力の一つです。

様々な体験をしながら、地震からくらしを守るために大切なことは何か考えてみませんか。見学は無料で行うことができます。

【水はどこから】

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徳川家康が江戸に幕府を開き、天下の城下町として江戸の町づくりが、諸大名たちの手によって始まりました。この頃の生活水は、小石川上水や溜池上水から給水されていました。そして、江戸城周辺には豪華な大名屋敷が建ち、日本橋や新橋方面の下町には商店や長屋が建ち並び、次第に江戸が大変な賑わいを見せるようになりました。足りなくなった生活水は、井の頭池を源とする神田川を懸樋で渡す神田上水が作られ、人々の暮らしを支えるようになりました。しかし、江戸の発展は著しく人口が増加する一方でした。そこで、幕府は多摩川の水を江戸に引き入れる壮大な計画を立て、玉川兄弟(庄右衛門、清右衛門)によって羽村取水口から四谷大木戸まで43kmもの上水が作られました。江戸市中の地下に石樋や木樋による配水管を設置し、江戸に住む人々に生活水を与えました。江戸時代の時代劇で、長屋の人々が井戸から水をくみ上げているのは、実は上水からの水が地下に蓄えられているものをくみ上げているのです。人口100万人となった江戸の町、江戸時代265年間を守ったのはこれらの上水であったかも知れません。
 さてその後、江戸は明治維新で東京となり日本の首都として機能を果たしていきます。銀座にはガス灯が現れ、鉄道、電信、レンガ作りの家と東京の風景は急激に変化していきます。生活水は、上水の管理ができず木樋も老朽し水質が悪化していました。そこで、明治政府は上水を止めて、新たに鉄管による東京近代水道を進めていきました。淀橋に浄水工場、本郷と芝に給水工場を建て、生活水を供給するようにしたのです。本テーマである「水はどこから」は、学習指導要領の第4学年の内容(2)「人々の生活や生活環境を支える事業について」に関する内容です。水道局や水道事業に携わる人々を取り上げて学習を進めることが多いです。しかし、先に述べた東京の水の歴史について知ることは、この学習を進める上でも大変役に立つものと思われます。私が述べた水の歴史は「東京都水道歴史館」で学びました。区社会科部で研修に行き、実際に4年生の児童も連れて見学しました。江戸時代の石樋・木樋や江戸市中へ供給した図面を見て、壮大な事業を当時の人々が計画的に緻密に行ったことに感動しました。歴史とは、ついつい大きな出来事にとらわれてしまいますが、この見学から人々の生活に必要なきれいな水を求めた幕府や政府の営みを学びました。飲料水を事例として扱う場合は、水道の歴史も少し取り入れてみませんか。


【水上バス】東京を水辺から巡る

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私たちの東京は、多くの観光地がありたくさんの魅力を発信しています。その中でも、隅田川を船でめぐり、水辺から東京を観光することで新たな魅力を発見することができます。

隅田川を船で旅しながら浅草とお台場海浜公園を結ぶ、水上バスは外国人の方々にも大変人気があります。浅草を出発すると、隅田川から見る東京スカイツリー、たくさんの橋の下を通り過ぎながら船旅が続きます。お台場海浜公園が近くなると、レインボーブリッジの下を通ることができます。

船旅をさらに楽しませてくれるのは、たくさんの魅力ある「船」のデザインです。漫画・アニメ界の巨匠・松本零士氏がデザインを手がけた「ホタルナ」「ヒミコ」は宇宙船をイメージしており、この船の時間に合わせて予約を取る人もたくさんいます。また、「初日の出クルーズ」「夜桜船 桜橋周遊ライン」「隅田川花火大会 観覧クルーズ」「東京湾大華火祭観覧クルーズ」など季節限定のイベントクルーズもたくさんあり、東京の学習に役立つだけでなく、家族や友だちとも楽しむことができます。


【病とたたかった人々】伊藤玄朴らと種痘所

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4年生では『郷土の発展につくした人々』を学習します。副読本『わたしたちの東京都』では幕末期に西洋医学を学び、蘭方医として当時不治の病として恐れられていた「疱瘡(天然痘)」などの伝染病とたたかった医師 “伊東玄朴”を取り上げています。
 今年は世界中で「新型コロナウイルス」が猛威を奮っています。医療の最前線で活躍する医療従事者のみなさんの活躍は、子どもたちの目にも憧れとしてうつっていることでしょう。かつて江戸時代にも、疱瘡(天然痘)やコロリ(コレラ)、梅毒などと勇敢に戦った東京の先人たちの活躍は、子供たちにとって身近な教材として映ることでしょう。特に疱瘡は、その致死率が20〜50%と高く、特に子供が患いやすかったといいます。わたしたちの学校の近くにも、疱瘡からわが子を守るため、疱瘡を神として神社に祀ったり、疱瘡神が犬や赤色を苦手としたという伝承から、赤い御札や張り子の犬の人形を飾るなど、地域によってさまざまな伝承が伝えられています。

ガスの歴史「文明開化を照らした明かり」

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文明開化の夜を照らした明かり
 日本で最初のガス事業は、横浜で始まりました。2年後の1874年(明治7年)には、銀座レンガ街の建設とともに、銀座通り沿いに85基のガス街灯が灯り、東京におけるガス事業が誕生しました。このガス事業の口火を切った実業家高島嘉右衛門は、横浜付近の海を埋め立て、新橋・横浜間の鉄道を設置した人でもあります。
 当時繁華街に設置されたガス灯は、未来の快適な暮らしにつながる最先端の光だったのです。(例えば夜も商売できるようになるなど。)
 その後、ガス導管敷設の苦労を重ね、また、ガス灯用のマントルの導入により白く明るい光を実現することで、ガス灯は東京の街中に拡がり、全盛期の1917年(大正6年)には、5,792基のガス街灯が夜の街を照らし出しました。
 ガス灯を決められた時間に点消する仕事をしていた人がいます。これを「点消夫」(サン・テグジュペリ「星の王子さま」にも出てきますね。)と言います。その仕事を任せるための二つの条件とは何でしょう?「働き者であること」と「妻帯していること」でした。後者については寝過ごさないよう、ちゃんと起こしてくれる家族があることが重視されていたようです。
 現代では、ガス灯の放つ柔らかい光やクラシカルなデザインは、建物や地域のモニュメントとして利用され、全国では約3,000灯のガス灯が、私たちの周りで輝いています。

<画像と解説>
(左)「東京名所 京橋銀座通里煉化石瓦斯燈景ノ図」 歌川広重(三代)<明治13年>
(中)「立斎漫画」 歌川広重(三代)<明治12年> 注:点灯夫の背中に、赤丸に黒字で「瓦斯」の印があり、東京府瓦斯局時代から1898(明治31)年までガス会社で使われていた。
(右)横浜で使われていたガス灯。ガス資料館に設置されていて、裸火タイプ。

<参考文献・画像出典>
GAS MUSEUM がす資料館 ギャラリー第72回企画展「ガス燈が照らした東京の街」展、他収蔵作品より
https://www.gasmuseum.jp/wp-content/uploads/gal...
日本ガス協会ホームページ「ガス灯のある街」
https://www.gas.or.jp/gasto/

【元町公園・旧元町小学校】震災からの復興(3)

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関東大震災からの復興の取り組みで東京のまちは大きく変わりました。そのひとつが学校・公園です。それまでの学校は木造校舎がほとんどでしたが、震災で発生した火災により多くの学校が焼失してしましました。この反省もとづき、小学校を鉄筋コンクリートの校舎にすると共に隣接した小公園をつくることで防災機能を高め、文化的な学校教育を目指しました。このときの学校や公園を「復興小学校」「復興公園」と呼び、現在でも都内に見ることができます。
そのような施設のひとつが文京区にある元町公園、旧元町小学校です。水道橋駅からほど近く、神田川(外堀)を右手に見て坂を上ったところに元町公園があります。現在の児童公園などとは違い、レトロで格調高い入り口の階段やパーゴラ(つる棚)などがあり、その奥には隣接した旧元町小学校の校舎も見ることができます。(現在は校庭などには入ることができません。外から見るだけになります。)このような小学校と小公園が隣接しているのが復興小学校・公園の特徴です。しかし、復興小学校も校舎の老朽化で建て替えが進んでいます。当時の姿をみられなく時期も迫っています。
他の地域(震災で焼失した被害の大きかった地域)でも復興小学校をみつけることができます。調べて巡ってみてはどうでしょうか。

【凌雲閣(りょううんかく)】明治〜大正の東京のタワー

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 1890(明治23)年に浅草公園に隣接して凌雲閣(りょううんかく)が開業しました。通称浅草十二階とも言い、当時の浅草のシンボルでした。高さは52mで当時日本一の高さを誇っていました。10階までが八角形のレンガづくり、11、12階が木造で、日本で最初のエレベーターが設置され8階まで見物客を乗せていました。各階に売店や休憩所がり、11、12階には望遠鏡が備えられていて富士山や房総、品川まで展望できたそうです。残念ながら関東大震災で半ばから折れ、その後に取り壊されました。
 現在は、凌雲閣が建っていたであろうとする場所(浅草ビューホテル近く)に碑が残されています。またその辺りはビル工事などするといまだに凌雲閣のものではないかと思われるレンガが出てきます。
(絵葉書 出典:Wikipedia)

【永代橋・清洲橋】震災からの復興(2)

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 「復興は橋より」これが関東大震災の復興事業の合い言葉でした。関東大震災では東京の各地から火の手があがり大きな火災となり多くの人々の命を奪いました。当時の隅田川にかかる橋は木製の橋であったため、多くが被災し通行できなくなくなり、避難する人々の行く手をはばみました。これにより被害が大きくなったのです。道路を広くし、鉄製の立派な橋をつくることが新しい東京のまちをつくる基本でした。
 そんな橋を巡ることができます。現在、隅田川沿いには遊歩道が整備され川風を感じながら楽しく歩くことができます。そのなかでもぜひ、巡りたいのが万世橋と清洲橋です。この2つの橋は復興橋梁を象徴するものです。橋のたもとに建てられた土木遺産の記念碑には「帝都を飾るツインゲイト」と題し次のような文章があります「帝都を代表する隅田川の入り口にあたる第一、第二橋梁は、筋骨隆々とした男性的なイメージ(永代橋)と優美な下垂曲線を描く女性的なイメージ(清洲橋)で演出されました。」
 隅田川は昔から江戸・東京を象徴する河川です。川沿いの遊歩道を歩くことで多くの新しい発見があります。万世橋・清洲橋以外にも多くの橋があり、ひとつずつに歴史があります。

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